聖戦とジハードの違いって何?聖戦や自爆テロでも天国に行けるの?[60分でクルアーン7]

【60分でクルアーン】全体の目次!

 

このシリーズは、クルアーンの重要な記述をテーマごとに抜粋してできるだけ分かりやすく説明していくことを目的にしています。なお、クルアーン本文は難解なため一部簡略化して表示します。
このページでは聖戦とジハードの違いや、聖戦やテロで死んでも天国へ行けるのか、について取り上げてみたいと思います。

スポンサードリンク

 

聖戦とジハードの違い

聖戦とは?

こちらが聖戦に関する記述になります。
読んでみてください。

2-186
汝らに戦いを挑むものがあれば、アッラーフの道(宗教のための聖戦)においてこれを迎え撃つが良い。だがこちらから不義をしかけてはならぬぞ。アッラーフは不義をなす者を愛したまわない。

「イスラム社会への侵略は神の道「聖戦」として戦いなさい。 しかし行き過ぎた殺戮や騙し打ちなどの不義をしてはいけない。」といった内容になります。 つまり聖戦」として認められるのは自衛の戦いまでである、そしてイスラム過激派やテロリストがやっている行き過ぎた殺戮やテロは「不義」であり「聖戦」には含まれない、と解釈できます。アッラーフからは愛されないでしょう。

そもそもジハードとは?

ジハードとはよく「聖戦」と訳されますが、本来の意味は「神の道のために努力すること」であり、 つまり「信仰のためのすべての努力」を表します。 要するに「お祈りやラマダンのための努力」も全てジハードです。 そして、侵略に対する自衛のために闘う「聖戦」も「ジハード」の一つということになります。 しかしそれも不義を働いたり、度を越してしまった場合は、「聖戦」と同じく「ジハード」には含まれなくなると考えられます。
次の言葉が「ジハード」をよく表していると言われています。

49-15
よいか、本当の信者というものは、一旦アッラーフと使徒(ムハンマド)を信じたら、 もう決して疑いを抱いたりすることなく、己が財産を投げ出し、身命をなげうってアッラーフの道に奮闘する人のこと。

アッラーフを決して疑うことなく信じ抜き、 信仰のためのあらゆる努力を惜しまないこと。これこそが「ジハード」であり、「イスラム教徒のあるべき姿」と考えられているようです。
イスラム教徒が守るべきものとされる「六信五行(ろくしんごぎょう)」をみんなで努力(ジハード)することで、イスラム社会全体の連帯感を高める狙いもあったのかもしれません。
「ジハード」は「聖戦」よりも広い概念であり、「聖戦」は「ジハード」の一部ということになります。

スポンサードリンク

 

聖戦で死ぬと天国に行けるって本当? 自爆テロは天国へ行けるの?

イスラム教徒が聖戦で死ぬと天国に行けるとよく言われますが、 その根拠となるのはこういった記述になります。

3-152
もし汝(なんじ)らが戦場で死んだり殺されたりした場合、必ずアッラーフのそばに呼び集めていただけるぞ

神は天国の統治者と見られており、そしてこのような記述を持って「聖戦」で命を落としたものは、最後の審判の後、必ず天国に行けると解釈されています。本来イスラムの教えでは自殺は永遠に地獄の業火で焼かれるほどの大罪とされています。しかしイスラム過激派は自爆テロでも必ず天国に行ける、と解釈をねじ曲げて教育を行っているようです。
上でも紹介したようにアッラーフは「こちらから不義を仕掛けてはならぬぞ」とおっしゃっています。 非戦闘員に対する殺戮は確実に不義に当たります(つまり聖戦ではない)。 テロで死んでも天国に行ける道理はないと思われます。

こちらも重要な言葉になります。

8-75
信仰を受け入れ、己の財産も生命も投げうってアッラーフの道に奮闘した人々、それから避難場所と援助を惜しまなかった人々こそが 本当の信者である。 来世(天国)でお許しと結構な食物が惜しみなく頂けるであろう

実際に戦闘には参加しなくても、金銭の支援や隠れ家を提供しただけでも天国に行ける可能性が高いことが分かります
これも本来、上で紹介した「ジハード」つまり「信仰の努力」をする人たちに対して、避難場所と金銭援助を惜しまなかった人達を対象にしているはずなのですが、イスラム過激派やテロリストたちの隠れ家の提供や資金の供給の口実にしばしば悪用されているようです。
拡大解釈をしてしまえば何とでも言えるのかもしれませんが、こちらも「アッラーフの道(本来のジハード)」から外れた行き過ぎた人達を援助しても、天国へ行ける道理はないと思われます

エンディング

クルアーンを読む限り、「聖戦」として認められるのは自衛のための戦争までであり、行き過ぎた殺戮やテロは不義(聖戦ではない)とされます。ですのでそのために死んだり、あるいは援助や隠れ家を提供しても、 天国へ行ける道理はないと思われます。しかしクルアーンの中には言い回しを微妙に変えた似たような表現が度々現れ、いくらでも解釈が成り立ってしまうのも事実です。
キリスト教や日本の浄土真宗にも同じことが言えますが、 絶対神や他力本願で外部の救済者を崇めるタイプの宗教には、少なからず捨て身をよしとしてしまう側面があります。本来危険な宗教ではないのですが、彼らが追い詰められた時に「解釈の捻じ曲げ」が起こりやすくなるのかもしれません

スポンサードリンク