このシリーズは、クルアーンの重要な記述をテーマごとに抜粋して、できるだけ分かりやすく説明していくことを目的にしています。なお、クルアーン本文は難解なため一部簡略化して表示していきます。
イエスの神性の否定
イエスの神性の否定については、クルアーンの中で繰り返し語られる、大きなテーマの一つになっています。
まずはイスラム教のユダヤ教やキリスト教に対する基本的考え方を知っておいてください。
2-105,106節
彼ら(ユダヤ、キリスト教徒)に言わせればユダヤ教徒とキリスト教徒以外のものは絶対に楽園(天国)には入れないと言うが、これはただ彼らの勝手な独り決めである。 自分の顔(魂)をアッラーフに捧げ尽くした人、そして善行を積む人は誰でも神様からご褒美は頂ける。
ユダヤ教やキリスト教を原則的には認めていますが、 彼らは教義を勝手に捻じ曲げている 、ユダヤ教、キリスト教徒しか救済されないというのは誤りであり、アッラーフを信じ善行を積めば誰でも天国へ行ける、という立場を取っています。 要するに神や教義の解釈をめぐって対立しています。
この3つの宗教は、信仰している神様は基本的に同じ神様(ヤハウェ=アッラーフ)になりますが、キリスト教においてはヤハウェとイエス、聖霊を合わせて神とする「三位一体」という考え方を取ります。
徹頭徹尾神賛美をするイスラム教においては、「三位一体」のままでは対立するイエスキリストを神として崇めてしまうことになります。そこで神様は共有しつつも、イエスだけは神から排除したかったようです。
また、旧約聖書のアダム、アブラハム、モーセら預言者たちを原則的に認め、その延長線上に登場した預言者ムハンマドという立場を取りたいので、クルアーンでは「イエスは実は神ではないのだ。預言者の一人でしかないのだ。」という立場を取り、さらにその預言者イエスに「最後の預言者ムハンマドの到来」までをも預言させようとします。これがクルアーンの狙いになるようです。
これらを念頭に置いて、まずはこちらを読んでみてください。
4-169
よく聞け救世主イエス、マリアの息子はただのアッラーフの使徒であるに過ぎない。43-59
よいかあれ(イエス)はただの僕(しもべ:人間)にすぎぬ。それにアッラーフが 特別の恩寵を授けてイスラエルの子らの鑑(かがみ)としたまで。
要するにアッラーフは「イエスは神ではなく人間である」ということを言いたいようです。これがイスラム教のキリスト教に対する基本的立ち位置ということになり、クルアーンの中ではこれが繰り返し語られることになります。その中には、アッラーフがイエス誕生の真相を語る場面があるのですが、そこでは「イエスの神性を否定」するためにムキになっている印象すら受けます。
こちらを読んでみてください。
19-16~35
アッラーフが(マリア)に聖霊(天使ガブリエル)を遣わせ「わしは主のを使いとして参ってもの。汝(なんじ)に無垢な息子を授けるために」と言う。(つまり新約聖書の受胎の告知の場面です)
(中略)
こうして彼女はみごもって人目を避けた。
(中略)
(そのうち) 彼女は息子を抱いて一族の人々のところに行ってくる。(すると)人々は 「これマリア、何という大変なことをしたのだ、アロンの姉よ。 お前のお母さんは淫らな女ではなかったのに。」(と、まだ結婚していないのに子供を作ったため非難した。) すると赤ん坊(イエス)が口をきいて「私はアッラーフのしもべです。(アッラーフは)啓典を授け、私を預言者にしてくださいました。 まだ命ある限り礼拝と喜捨のつとめを欠かさぬよう、 戒めをいただきました。」
これがマリアの子イエス。 皆がいろんな言ってる事の真相はこうである(とアッラーフが言っている)。
クルアーン本文を読む限り「アッラーフは私を預言者にしてくださいました。」と喋ってるイエスは0歳です。 生まれてすぐ7歩歩いて天地を指差し「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と言ったとされるシャカ伝説に似ていますよね。とにかくクルアーンでは、旧約聖書や新約聖書の内容を原則的には認めつつも「イエスは神ではない! あくまで預言者の一人なんだ!」ということを強調したいようです。ですがもし本当に生まれた直後に喋ったのであれば、 逆に「預言者(人間)」を通り越して「神の領域」にあるように思えてしまうのですが……
そしてこの中で気になる発言がもう一つあります。 聖母マリアのことを「アロンの姉よ」と語りかけています。「アロン」とは預言者モーセの兄のことで紀元前15世紀頃の人物になります。 紀元前4年に誕生するイエスの母マリアの弟が、なぜ紀元前15世紀の人物なのでしょうか。 少し支離滅裂な印象を受けます。 ですが逆に、ここまでしてでもイエスの神性を否定したかった、ということになるのかもしれません。
アダムの修正
2-33アッラーフは言った「これアダム。汝(なんじ)は妻とともにこの楽園に住み、どこなりと好むところで(果実を)思う存分食べれば良い。 ただしこの木(知恵の木)にだけは決して近寄るなよ。(近寄れば)不義を犯すことになるぞ。」 しかしイブリース(サタンのこと)は二人を誘惑してこの禁を破らせ、二人をそれまでの(無垢の)状態から追い出してしまった。そこでアッラーフは言った。「(ここから)墜ちていけ、 一人一人がお互いに敵となれ。(中略)」 しかし(その後)アダムは主からの特別のお言葉を頂戴し(これをもってアッラーフはアダムを赦したと解釈されています)、主は御心を直して彼に向かい給うた。(中略)またアッラーフは言った。「しかしやがてわしは、汝らに導き(これはクルアーンと解釈されています)を下しつかわすであろう。 その時はわしの導きに従う者は、決して恐ろしい目に合いわせぬ。だが不信の徒となってアッラーフの下す神兆を嘘呼ばわりする者どもは業火の住人となって、 永遠にそこに留まらねばならぬぞ。」
本当の目的は最後の預言者ムハンマドの正当性の担保?
こちらの記述では、イスラム教におけるイエスとムハンマドの立ち位置がさらに明確になっています。 読んでみてください。
61-6
マリアの子イエスがこう言った時のこと「 これイスラエルの子らよ、わしはアッラーフに遣わされてお前たちのもとに来たもの。 わしより前に啓示された律法(トーラー)を確証し、かつわしの後に一人の使徒が現れるという嬉しい便りを伝えに来たもの。 その名はアフマド(ムハンマドの原名を表すそうです)。」
彼(イエス)がいろいろな徴(奇跡)を行って見せると、皆「これは確かに妖術だ」などとばかり言う。
これもイエスの発言なのですが、こちらのイエスは成人後と思われます。ここでもイエスは神ではなく、完全に神の言葉を伝える「預言者」として描かれていますが、 その預言の内容に注目してみてください。イエスは「使徒ムハンマド」の到来を預言しています。 しかも私の後には使徒(預言者)は一人しか現れないとも受け取れます。
旧約聖書のアダムから始まる預言者のバトンは、アブラハム、モーセ、イエスへと受け継がれ、そして最後のムハンマドへ引き渡され、預言者の系譜がついに完成する。アダムに予告されたクルアーンの啓示がついに現実化する。ということになります。クルアーンの狙いはここにあったのですね。
当然キリスト教徒は反発しますが……
エンディング
クルアーンでは聖書での有名な人物のエピソードが繰り返し語られます。 その多くがアッラーフが「聖書ではこうなっているが、実はこうなんだ」 という形で微妙な修正を加えていく形で登場します。 中でも重要で大きな変更がイエスと言えます。それがクルアーンの重要テーマの1つ「 イエスは神ではない、預言者の一人である」ということ。さらに「アダムから始まる預言者の系譜をイエスへと繋ぎ、最後の預言者ムハンマドで完成させ、アダムへのクルアーンの予告を現実化させること」。
このシナリオは確かに説得力があり、かつこの先イスラム教分裂の可能性を生む「新たな預言者の登場」を阻止する事にもなります。 ですがそれは、キリスト教の教義の根幹を否定し、かつ永久に埋まらない溝を抱える構造になってしまっています。今も昔もキリスト教徒との争いが絶えない理由が分かる気がします。