【5分で羅生門】あらすじ・内容・解説・感想!【芥川龍之介】

「羅生門」は1915年に発表された芥川龍之介の文壇デビュー作。これは「今昔物語」に素材を求めた短編小説で、平安時代の羅生門を舞台に、下人と老婆との間に、「生きるために悪」を選ぶという「人間のエゴイズム」を描き出した傑作です。
芥川は古典に題材を求め、その歴史的記述に独自の脚色や新しい解釈を与えることで、「人間のエゴ」などの「普遍的なテーマ」を浮かび上がらせる新しい文学を確立しました。「羅生門」は、文庫本10ページほどの短い小説ですが、その新しい歴史小説の原型となる記念碑となった作品とされています。
この「羅生門」について、内容・解説・あらすじ・感想を書いてみました。

 

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まずは簡単な内容と解説!

平安時代の平安京を南北に貫く朱雀大路の南端「羅生門」を舞台とした物語です。仕えていた主人から解雇された下人が、生活の糧がないので盗賊になろうかと悩みながら、荒廃した「羅生門」の2階に上がる。するとそこでは、老婆が若い女の遺体から髪の毛をむしり取っており、怒りを覚えた下人は正義の気持ちで刀を抜く。ところが老婆の言う「この死人達はそれぐらいのことをされてもいい人間たちだ。この女も生前に蛇の干物を魚の干物だと偽って売り歩いていた。抜いた髪でかつらを作って売ることは、自分が生きるために仕方がないのだ。」と。これを聞いた下人は、自分も生きるために仕方がない、と盗賊になる決心を決め、老婆の着物を剥ぎ取り去っていく。

ざっくりとした内容はこのようになりますが、この物語は、「今昔物語集」の本朝世俗部巻二十九「羅城門登上層見死人盗人語第十八」を基に、巻三十一「太刀帯陣売魚姫語第三十一」の内容を一部に交える形で書かれたものとされています。
漢字ばかりでわかりづらいと思いますが、要するに「今昔物語集」の中から二つのエピソードを取り出して題材としている、ということです。
前者は、「盗みを働くために京都にやってきた男が羅生門の2階に上がると、老婆が死人の髪を抜き取ってかつらを作ろうとしており、盗人は死人の衣、老婆の衣、そして髪、を奪って消え去った。」という話で「羅生門」のメインストーリーの元。原作では老婆は髪を売る目的でむしり取ったとは書いておらず、また盗賊になろうかと悩んでいる下人は、原作では最初から盗み目的の男だったという点が大きく異なります。
後者は、「「たちはき」という皇太子を護衛する役職の者が、いつも魚の切り身を購入している女を偶然見つけて取り調べてみると、籠から蛇が出てきて、今まで蛇の切り身を食べさせられていたことが発覚した」という話。こちらは「髪をむしり取った女のエピソード」として挿入しています。

このように芥川龍之介は、ゼロからこの物語を組み立てたわけではありません。古典に題材を求め、そこに独自の脚色や新しい解釈を加えていくことで、「人間のエゴイズム」などの「普遍的なテーマ」を浮かび上がらせる、新しい手法の文学を確立した、ということです。そしてこの「羅生門」が、この新しい文学の出発点となり、この後「鼻」「芋粥」などの古典に素材を求める歴史小説を相次いで発表していくことになります。

芥川は「平家物語」「宇治拾遺物語」など様々な古典に題材を求めましたが、特にこの「今昔物語」を題材とした作品が多いことが特徴です。「今昔物語集」は平安末期に成立した説話集で、「今は昔」と始まるためこの呼び名になりました。当時の幅広い人たちのエピソードを取り扱っていますが、特に盗人や乞食などの下層の人々の苦しみや現実を、残酷なまでリアルに描き出しているところに、この「今昔物語」の特徴があると言われています。

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もうちょっと詳しいあらすじ!

内容でも触れましたが、ここではもうちょっと詳しめのあらすじをご紹介します。少し重複しますので、お急ぎの方は飛ばしてもらっても構いません。

この平安時代、平安京は地震や火事・飢饉などの災いにより荒廃していた。平安京の朱雀大路の南端にある「羅生門」は、元々人気がなかったため特に荒れ果て、盗人が住みつき、引き取り手のない死体がよく捨てられていた。そして暗くなると気味が悪いので、誰もこの門に近づこうとしない。
(※本来は「羅城門」だが、近代まで「羅生門」と表記されることが多かったため、芥川も「羅生門」としたそうです。)

ある秋の日の暮方、一人の下人(げにん)がこの「羅生門」の下で雨が止むのを待っていた。
(※下人というのは、平安中期以降に貴族や寺社などで使役された私的隷属民で、身分の卑しい人達のこと。主な仕事は耕作・雑務・馬引などで、子孫も代々主家に使えた。)
(※今昔物語の原作では、下人ではなく最初から盗人という設定です。)

下人は4,5日前に主人から解雇されていた。行くあても食べるあてもない彼は「盗人になるよりほかに仕方がない」と何度も悩み考えたが、なかなかその勇気が出なかった。
(※つまり彼は既に解雇されているため、正確には下人ですらありません。)
(※今昔物語原作では、最初から盗みを目的に京都にやってきた男という話なので、盗人に落ちるべきだろうかという心の葛藤は、当然ありません。)

夜になっても止まない雨の中、下人がこのまま「羅生門」で夜を明かそうかと思っていると、死体しかないと思っていた「羅生門」の2階から、火の光が揺れているのが見えて人の気配がする。気になった下人が2階に上がってみると、そこには白髪頭の猿のような老婆が、松の木切れに火を灯して女の死骸の傍にうずくまり、その死骸の髪を抜き始めた。

これを見た下人は老婆の行為に憎悪し、この悪行を許せなくなり、刀を抜いて老婆に近づいた。下人は、さっきまで自分が盗人になる気でいたことなどとうに忘れていた。
(※この時点で下人は老婆の目的をまだはっきり分かっていませんが、下人はあくまで正義の気持ちで刀を抜いたことになります。)

慌てて逃げようとする老婆の腕をつかんでねじ倒し、「何をしていた。いえ。」と迫った。すると老婆が答える「この髪を抜いて、かつらにしようと思っている。死人の髪を抜くことは悪いことかもしれないが、ここにいる死人どもは皆、それぐらいのことをされてもいい人間ばかりだ。わしが今髪を抜いた女は、蛇の干し切りを干し魚だと言って「太刀帯(たちはき)」(皇太子を護衛する役職の者)に売りに行ったのだ(※この話が今昔物語のもう一つのエピソードになります)。わしはこの女のした事が悪いとは思わない。しなければ餓死をするだけだ。だから今わしのしていたことも悪いとは思わない。やらなければ餓死をするだけだ。仕方がなくやっているのだ。この女もわしのすることを大目に見てくれるだろう。」
(※餓死をしない為に髪を抜いているとあるため、かつらは売ることを前提としていると思われます。これは元の「今昔物語」にはなかった設定です。これが老婆にとっての「生きるための悪」ということになります。)

老婆の行いに正義の心で怒りを燃やしていた下人だったが、これを聞くと下人の心に、さっきまで散々迷っていたいた「盗人」になる勇気が湧いてきた。そして老婆の襟を掴んで言った。「では、俺が着物を剥ぎ取っても恨むまいな。俺もそうしなければ餓死をする体なのだ。
(※そしてこちらが、下人にとっての「生きるための悪」)
(※今昔物語原作では、盗人になることへの葛藤はもちろん、正義と悪の描写もありません。)

下人は素早く老婆の着物を剥ぎ取ると、老婆を蹴倒し、瞬く間にはしごを駆け下りた。
(※つまり盗人の道を選びました。)

下人の行方は誰も知らない。

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感想

盗人になろうかと悩んでいた男が、遺体から髪をむしり取る老婆の行いに怒りを覚えて、正義の気持ちで刀を抜く。ところが老婆の「この死人達も生前は同じような事をしていた。抜いた髪でかつらを作って売ることは、自分が生きるために仕方がないのだ。」の言葉に、自分も生きるために仕方がない、と盗人になる決心を決め、老婆の着物を剥ぎ取っていく。

僕はこの話を聞いて、古代中国の政治家・管仲(カンチュウ・前645年死去)の言葉「衣食足りて礼節を知る」を思い出しました。

管仲(カンチュウ) 出典:ウィキペディア

衣食のない者に礼節を問いても無駄である。民衆に礼節をわきまえさせたいのならば、まず衣食を充実させなさい。」といった意味合いになります。

確かに人間の本質はその通りなのだと思う。自分が生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれてしまえば、綺麗ごとなど言ってはいられない。盗みに手を染める人は少なくないのではないでしょうか。

でも僕はこうはなりたくない。人としての誇りを失いたくない。一度盗みで生計を立てる術を覚えてしまったら、おそらく自力では戻ってこれないでしょう。

下人の行方は誰も知らない。」というのは
二度と陽のあたる生活はできなかった。盗人、罪人の道に永久に落ちてしまった。」ということを表しているのではないでしょうか。

お金を稼ぐ術がなくなれば、誰しもがこういった選択を迫られる可能性がある。決して他人事ではないぞ。」僕は芥川龍之介に、そう言われた気がしました。

だからこそこんなことになる前に、学生のうちに自分の将来を見据えて学問に打ち込まなければならない。こんな選択に迫られることがないよう、真剣にキャリアプランを考えなければならない。そんなことを強く感じさせられます。

だからこそこの本は、学生時代に読まなければならない。読んで「こんな男になりたくない」と強く思う事に、一番の意義があるのではないでしょうか

衣食が無くなれば、皆礼節もなくなってしまうのだから。皆この下人と同じ運命を辿ることになるのだから


芥川龍之介 出典:ウィキペディア

羅生門は、「天才芥川龍之介が人間のエゴイズムを描き出した傑作」として国語の教科書によく紹介されます。

確かに老婆と下人の行いには、「今昔物語」原作にはなかった「生きるための悪」という目を背けたくなるような「人間のエゴイズム」が明確に描かれています。この古典を素材に「普遍的テーマ」を織り込んでいく手法は、芥川龍之介による全く新しい試みであり、その原点がこの「羅生門」でした

ですがこの「羅生門」に関しては、芥川の試みや文学上の位置付け云々よりも、若いうちに読んで「絶対にこうなりたくない」と思うことに、一番の意義があるように感じます

少なくとも我々のような多くの一般の読み手にとっては、この本の文学史上の位置付けなどどよりも、そこからどんなことを学べるか、どんなことを教訓とできるのか、の方がはるかに大事です

もっと言うとこの物語は、国語の教科書よりも、むしろ道徳の教科書に載せるべき話ではないだろうかと思います。

人が犯罪者に落ちる瞬間を描いているのだから。どうしたらそうならずに済むのかを考えることが出来るのだから。学生が真剣に将来を考えるきっかけにもなるのだから

 

他の芥川の名作についても書いてみましたので、お時間があったら読んでみてください。
 
それとも他の本を読んでみる?
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