【5分で蜘蛛の糸】あらすじ・内容・解説・感想【芥川龍之介】

蜘蛛の糸」は、芥川龍之介が1918年に児童向け文芸雑誌「赤い鳥」に発表した短編小説。地獄に落ちたカンダタに釈迦が手を差し伸べるという童話で、文庫本で5ページほどの短いお話ですが、「罪と罰と救済」をテーマとした非常に深い小説です。芥川が初めて手掛けた児童向け文学でもあります。
この「蜘蛛の糸」について、あらすじ・内容・解説・感想を書いてみました。

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あらすじ!

1 お釈迦様、カンダタの善行を思い出して蜘蛛の糸をおろす

ある日の朝のこと、お釈迦様は極楽の蓮池のふちを独りでお歩きになっていました(※本来極楽浄土を統治しているのは釈迦ではなく阿弥陀仏のはずです)。やがてお釈迦様はその池に立ち、水面を覆っているハスの葉の間から下の様子をご覧になりました。この極楽の蓮池の下がちょうど地獄の底に当たっていました。

するとその地獄の底に、犍駝多(カンダタ)という男が他の罪人と一緒にうごめいている姿が目に止まります。

このカンダタという男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろな悪事を働いた大泥棒でしたが、たったひとつだけ良いことをした覚えがありました

ある時カンダタは、深い林の中の道端で小さな蜘蛛が這って行くのを見ました。カンダタはふみ殺そうとも思いましたが、「その命をむやみにとることはいくらなんでもかわいそうだ」と思い返して、その蜘蛛を殺さずに助けてやりました。

それを思い出したお釈迦様は、できるならその報いにこの男を地獄から救い出してやろうとお考えになりました。すぐそばのハスの葉の上に美しい銀色の糸をかけている極楽のクモを見つけたお釈迦様は、その蜘蛛の糸を手にとって、はるか下の地獄の底へその糸を降ろしました。

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2 カンダタ、自分だけ助かろうとして全員転落する

地獄の底の血の池では、他の罪人たちと一緒にカンダタが浮いたり沈んだりしています。そこは恐ろしい針の山がある真っ暗な場所で、たまに聞こえる罪人たちの嘆きの声以外は、墓の中のようにしんと静まり返っています。ここへ落ちてくる人達は、既に様々な地獄の責め苦に疲れ果て、泣き声を出す力さえなくなっているのです。大どろぼうのカンダタも死にかかった蛙のように、ただもがいてばかりでした。

ところがカンダタが頭を上げて空を眺めてみると、銀色の蜘蛛の糸がスルスルと自分の上垂れてきます。これを見たカンダタは、これを登って行けば地獄から抜け出し極楽へ入ることもできると喜び、この蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみ、一生懸命上へ上へと登り始めました。

しばらく登った後、くたびれたカンダタが一休みして遥か下を見下ろすと、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗い底に隠れています。地獄から抜け出せると思ったカンダタは「しめたしめた。」と笑いましたが、ふと気が付くと数多くの罪人たちが、自分が登った後をつけて、蟻の行列のようによじ登ってくるではありませんか。

糸が切れてしまうのではないかと、驚いて恐ろしくなったカンダタは、「こら罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰に聞いて登ってきた。おりろおりろ。」と大声でわめきました。

その途端、今まで何ともなかったクモの糸が、急にカンダタのぶら下がっているところから、ぷつりと音を立てて切れました。そしてあっという間に闇の底へ落ちていきました。

 

3 お釈迦様、カンダタを見捨てる

この一部始終をご覧になっていたお釈迦様は、悲しそうなお顔をなさりながら、またぶらぶら歩き始めました。自分だけが地獄から抜け出そうとするカンダタの無慈悲な心が、お釈迦様にはあさましく思われたのでしょう

極楽はもうお昼近くになっていました。

 

内容と解説!

芥川文学の特徴と蜘蛛の糸

芥川龍之介(1892〜1927年)は、当時新技巧派の代表格と見られていました。赤裸々な自己告白などのリアリズムをよしとする文学感が自然主義とされていますが、新技巧派というのはその自然主義を否定した理念の文学・虚構の文学とされています。

芥川作品は、技巧に長け、感情よりも知性を重視し、文体も洗練され、高度に仕組まれた構成で非常に高い完成度を誇る、と言われています。ですが、自然主義の文壇関係者からは嫌われ、「芥川の作品の唯一の興味は、無限大の人生から一辺の出来事を切り取ってきて、それをいかに巧みに画面化するかということに過ぎない。」などと批判されました。

そんな芥川が得意としたのが、「羅生門」のように今昔物語などの古典に素材を求めて、そこに普遍的テーマを折り込み新たな文学を創作する手法。

この「蜘蛛の糸」にも素材となる文学があり、それがアメリカ人作家・ポール・ケーラス(1852〜1909年)の「Karma (カルマ)」(1894年・日本語訳「因果の小車」)ではないかと見られています。この「カルマ」にはケーラス創作の八つの仏教説話が収録されており、そのうちの一つのタイトルが「The Spider Web (蜘蛛の糸)」で、主人公の名前も「Kandata」。芥川はこの「カルマ」の「The Spider Web (蜘蛛の糸)」に独自の解釈を加えて、この新しい「蜘蛛の糸」(1918年)書き上げたと言われています。

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大乗仏教の世界と「蜘蛛の糸」の矛盾点

しかし芥川の「蜘蛛の糸」を読んでみると、その世界観に正直違和感を感じます。このお話を読んでみると、お釈迦様が極楽浄土から蜘蛛の糸を垂らしたことになっています

大乗仏教の世界観では、この世界のことを娑婆(しゃば)世界という一つの仏国土(ぶっこくど)と考えています。仏国土とは一人の仏(ブッダ)が統治できる世界のことであり、ブッダ(本来悟った人を意味する言葉であり、釈迦もその1人)の数だけ無数に存在するとされています。この娑婆世界という仏国土を統治するブッダが釈迦如来(しゃかにょらい・如来=ブッダの意味合い)であり、はるか東方にある妙喜世界(みょうきせかい)という仏国土を統治するのが阿閦如来(あしゅくにょらい)、はるか西方にある極楽浄土(ごくらくじょうど)という仏国土を統治するのが阿弥陀如来(あみだにょらい)、さらにその他無数に存在する統治者(ブッダ)たちの総元締めとして存在するのが大日如来(だいにちにょらい=盧舎那仏)、ということになっています。当時のインドには地球が丸いという概念がなかったためこのような表現になっていると思われますが、ブッダたちと大日如来の関係は、ドラゴンボールにおける惑星ごとに存在する神様と界王様の関係に近いと思ってください。

これが釈迦の死(紀元前5世紀頃)後しばらく経って(紀元1世紀以降)から成立した大乗経典の世界観になりますが、はるか西方にあるはずの極楽浄土を統治しているのは釈迦如来ではなく阿弥陀如来のはずです。釈迦に人を極楽浄土に招く権限はありません。それから極楽浄土というのは、キリスト教やイスラム教における天国とは全く別物です。

 

そもそも極楽浄土とは?

大乗仏教においてブッダ(修行を完成させて六道の輪廻を解脱した人)になるためには、既に悟りを開いた先輩ブッダに対し誓願(誓いを立てて神仏に祈願すること)と授記(仏が修行者に対して将来必ず仏となることを予言し保証を与えること)を行い、その上で修行を完成させることで、自分の仏国土を持つブッダになれるとされています。無量寿経(むりょうじゅきょう)によると、阿弥陀如来(あみだにょらい)はまだブッダになる前の法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)時代に、先輩ブッダの世自在王仏(ぜじざいおうぶつ)に対し、48の願掛け(つまりこんな仏国土を作りますというマニュフェストであり、これが誓願となっている)を行った上で授記を行い、修行を完成させて極楽浄土を統治するブッタ(阿弥陀如来)となりました。その願掛けによると極楽浄土は次のようになっています

容姿の美醜のない苦しみも悲しみもない世界で、常に宝石の花の雨が降り注ぎ、雲からは絶妙な音楽が流れ、宝石でできた香炉からは供養にふさわしい香りが漂っている世界。極楽浄土に生まれたものは全て金色で聡明であり、永遠の寿命を持つ。黄金や宝石、衣服や食べ物、芳香や音楽などは、仏を供養し修行に励む限り、望むだけ瞬時に与えられる。わずかな時間に他の仏国土に行って多くのブッダを供養できるなど、仏教修行のために特化した世界となっている。極楽浄土に生まれ変わりたいと本気で願った(南無阿弥陀仏と唱えるなど)のであれば、罪を犯した者や正しい教えを誹謗するものを除いて、阿弥陀仏はその人を極楽浄土に迎えに行かなければならない。極楽浄土に生まれ変わった者は、死んでも地獄界や畜生界・餓鬼界に落ちることはない。また地獄界や畜生界・餓鬼界の境遇に落ちる者が存在してはならない

無量寿経を読む限り、極楽浄土の世界観はおおよそこのよになっています。この世の楽園のように描かれていますが、ここで修行を積むことでブッダ(二度と輪廻しない存在)になって自分の仏国土を持つことが最終目標であり、極楽浄土が最終目的地ではありません。あくまで修行を積んでブッダになる(成仏)ための通過点に過ぎないという位置づけです。この辺りがキリスト教やイスラム教における天国との決定的な違いになります。

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感想!

そもそもカンダタは極楽浄土にやってくる資格があるのか?

無量寿経の原文を読む限り、「罪を犯した人については、極楽浄土に生まれ変わりたいと本気で願っても、阿弥陀仏は迎えに行く必要はない。」とされています。

カンダタは、人殺し・放火・泥棒など多くの罪を犯しています。そしてそもそも極楽浄土に生まれて変わりたいと願った描写もなければ、修行を積んでブッダになり(成仏という)たがっている描写もありません。

そういう人に対して善行が一つあるからと言って、ブッダの思い付きで救いの手を差し伸べてしまうのは、逆に不公平な印象を受けます。極楽浄土というのは、あくまでブッダになるための修行の場のはずです。

また「地獄界に落ちるような者が存在してはならない。」ともあるため、地獄に落ちたカンダタを何も問わずに極楽浄土に受入れることは、やはりダブルスタンダードに感じます。

とはいえ、カンダタも現世において一度死んだ上で地獄に落ちているわけです。これだけの犯罪を犯したとなれば、現世において相当な制裁を受けているのではないでしょうか。二度と陽のあたる生活はできず、まともな職にすらつけず、寂しい最後を送った。社会から白い目で見られ続け、友人・親族からも愛想を尽かされ、完全に孤立した。あるいは逮捕されて処刑された。死ぬまで牢獄にいた。など…ろくな余生は送れなかったはずです。

罪を犯した人間に対しては、現世において相当の制裁が課されるのが世の中の仕組みです。それが1度死んで生まれ変わった後も延々と苦しみ続ける、というのはいくらなんでもやりすぎなのではないかとも感じます。

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それでも僕はこの本を子供たちに勧めたい!

僕は聖書や仏典などの古典を割とよく読みます。そして読んでるうちに「これは人が作った世界に他ならないかもしれない」と思ったことも正直何度もあります。それでも頭も衰えた人生の最後には、般若心経にすがっているかもしれないとも思っています。
結局死後の世界があるのかないのか、輪廻があるのかないのか、誰にも証明はできない。僕は自分の死期が近づいたら、自分の都合のいいように解釈を変更するだろうと思う。そして割と多くの人が僕と同じ選択を取るかもしれないとも思っています。だから輪廻も地獄も極楽も、肯定も否定もしないつもりです。

この「蜘蛛の糸」の世界観についても肯定も否定もしません。矛盾点も散々書きましたが、極楽浄土に釈迦が住んでいようが、極楽浄土のマニフェストに反する行いをしようが、この物語についてはそのあたりもどうでもいいかもしれないと思いました。この本における重要なことはそんなところではないから。重要なことはこの本を読んでどんな教訓が得られるかだと思う。

悪いことをしたら罰を受ける。集団の中で自分だけ助かろう、自分だけいい思いをしよう、この考えはいずれ必ず制裁を受ける。

この単純で明確な教訓を、社会に出て失敗する前に童話を通して知っておくこと、ここに小さいうちにこの本を読むことの一番の意義があるのではないかと僕は思います。

正直カンダタを見ていると、少しやりすぎでかわいそうにも思えます。でもこうなりたくなかったら罪を犯すな。集団の中で自分だけがいい思いをしようとするな。この教訓が強烈に伝えられるのであれば、多少の矛盾や理不尽な扱いは気にしない方がいいのかもしれないと感じました。

僕はこの本を子供に勧めたいです。

 

他の芥川の名作についても書いてみましたので、お時間があったら読んでみてください。
 
それとも他の本を読んでみる?
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