【5分で高瀬舟】あらすじ・内容・解説・感想!【森鴎外】

高瀬舟」は1916年発表の森鴎外の作品で、江戸時代の随筆集「翁草(オキナグサ)」を元に書かれた短編小説。罪人を送る高瀬川を下る船内で、自殺に失敗して苦しむ弟にとどめを刺して罪人となった喜助が、高瀬舟の護送役の同心・羽田庄兵衛にその内容を語るというお話です。文庫本で15ページほどの短い物語ではありますが、「安楽死は許されるのか」「足ることを知る」という重いテーマを扱った文学となっています。
この「高瀬舟」についてあらすじ・内容・解説・感想を書いてみました。

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まずはざっくりとした内容と簡単な解説!

高瀬舟」は江戸時代の神沢杜口(かんざわとこう)の随筆集「翁草(オキナグサ)」の中の「流人の話」の「雑話」を元にして書かれた森鴎外の小説です。神沢(1710−1795)は京都町奉行所の与力(奉行の配下で部下の同心を指揮する役の人。要するに公務員。)で、「翁草」は彼の読書や諸記録の抜書き、それから彼自身の見聞とから成っており、室町時代末期から寛政時代までの歴史的事実などが書かれています(※つまりおおむね実話と思われます)。この「翁草」によるとこの小説の元となるお話は次の通り。

江戸時代の京都では罪人が遠島(エントウ)を言い渡されると、高瀬舟で大阪へ送られた。そして罪人を護送する京都奉行所の同心は、その時悲しい話ばかり聞かされる。あるときこの船に兄弟殺しの罪を犯した男が乗せられたが、少しも悲しがっていなかった。理由を聞いてみると、これまで食べるのにも困っていたのに、遠島を言い渡された時、銅銭200文をもらった。(金回りが良くなかったので)銭を使わずに持っているのが初めてだと答えた。また人殺しの罪については、生活苦の果てに兄弟が自殺を図ったが、死にきれなかった。兄弟が「もう助からないから殺してくれ」と頼むので殺してやった、と罪人が言った。

森鴎外は、このお話しに独自の脚色を加えて「高瀬舟」を書き上げたようですが、彼が同時に発表した「高瀬舟」の解説「高瀬舟縁起(たかせぶねえんぎ)」によると、鴎外はこれを読んで、二つの大きな問題が含まれていると思ったようです。

一つは「足ることを知る」。銭を持ったことのない人の、銭を持った喜びは、銭の多少には関係がない。逆に銭を持ってみると、いくらあればよいという限界などはない。人の欲には限りがない。しかしこの男に果てしない欲はなく「足ることを知っていた」、ということ。

もう一つは「安楽死は許されるのか」。「翁草」には教養がない人だから悪意がないのに人殺しになった、と批評されているが、死にかかっていて死なれずに苦しんでいる人を、早く死なせてやりたいという情は必ず起こる。それまでの道徳では苦しませておけとされているが、医学社会では楽に死なせてその苦しみを救ってやるのが良いという意見もある。それをフランス語では「ユウタナジイ」(要するに「安楽死」のこと)と言う、と鴎外は言っています。

森鴎外は、この二つの点に大変興味をもってこの「高瀬舟」を書いた、と「高瀬舟縁起」で語っています。鴎外は19歳で東大医学部を卒業し、軍医のトップまで上り詰めたエリートなのですが、この「高瀬舟」は彼が医者だったからこそでかけた本、と言えるのかもしれません。

感想では、この「安楽死」の問題を少し掘り下げて考えてみたいと思います。

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あらすじ!

少し詳しめのあらすじにしてみました。また、重要な論点と原作の世界観が壊れないように、会話はできるだけそのまま載せておきます。

1 高瀬舟とは?

高瀬舟」というのは、京都の中央部を流れる人工河川・高瀬川を上下する小舟のことで、遠島(エントウ)を申し渡された京都の罪人を大阪まで運ぶ役割を果たしました。遠島(エントウ)というのは江戸時代の刑罰の一つで、罪人を辺鄙な島(伊豆七島、壱岐、隠岐、五島の島々など)に送り、社会から隔離して苦痛を与える刑。バクチ打ちや心中、誤って人を殺したものなどに課される重罪。死罪よりかは軽いですが、島流しよりも重く、刑期は赦(しゃ)によって許されることもありますが、原則無期とされています。

この「高瀬舟」の船内では、罪人とその親族の者が夜通し身の上話を語り合うため、護送役の同心(江戸時代の庶務や警護の任に当たった下級役人)にはこれを聞き、同情して涙を流すものもありました。したがって、高瀬舟の護送は同心仲間からは不快な職務として嫌われていました。

 

2 喜助の身の上話

松平定信が政治を行った寛政の頃(1789-1801)喜助(きすけ)という30歳ほどの珍しい罪人が「高瀬舟」に乗せられました。喜助の罪状は弟殺し。本来この「高瀬舟」に乗せられる罪人は、目も当てられないくらい気の毒な様子に見えるものだか、喜助の顔はなぜか晴れやかで目には輝きがあったため、護送を命じられた同心羽田庄兵衛(はねだしょうべえ)は不思議に思いました。

堪えきれなくなった庄兵衛は喜助に呼びかけます。「喜助(※ここでは敬称はなく呼び捨てです。)、俺はこれまでこの船で大勢の人を島へ送ったが、どれも島へ行くのを悲しがっていた。ところがお前はどうも島へ行くのを苦にしてはいないようだ。いったいお前はどう思っているのだい?」

これに対して喜助はにっこり笑って答えた。
「それは他の人が世間で楽をしていた人だからでございます。これまで私の受けてきた苦しみ以上のものは、この京都の土地ではなかろうと存じます。これまで私がいていい場所などなかったが、この度はお上が島にいろとおっしゃる。まずそれがありがたい。それからこの度の遠島の刑において、銅200文(当時の相場が1文32.5円程なので、200文で6500円程。)のお金をいただきました。(遠島の刑を受けた者に銅200文渡すというのが当時の規則。)これまで私は、もらった銭はいつも右から左へと渡さなくてはならなかったため、今日まで200文(6500円程)というお金を懐に入れて持ったことがございません。しかも牢屋に入ってからは、仕事もせずに食べさせて頂けます。お上に申し訳ありません。私はこの200文を、島でする仕事の元手にしようと楽しみににしております。」

この意外な答えを聞いた庄兵衛は、黙って考え込んでしまいました。

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3 庄兵衛の身の上と「足ることを知る」

(※ここからは庄兵衛の身の上についての話)
同心(下級役人)をしている初老の庄兵衛には、女房と四人の子供そして老母がおり、7人暮らしでした。主君からの給与である扶持米(ふちまい)は決して十分ではなく、ケチと言われる程の倹約な生活をしていました。一方豊かな商人の家で育った女房はこの生活に耐えられず、月末になると内緒で実家からお金を持ちだして帳尻を合わせています。しかし庄兵衛がそれに気づくと当然よい顔はしないため、羽田の家には波風が時折起こっていました。

(※ここからは喜助の話を聞いて庄兵衛が思ったこと)
庄兵衛は、喜助の話を聞いて自分と比べてみました。喜助は給料を右から左へ渡してなくなってしまうと言ったが、自分も桁が違うだけで、上からもらう扶持米を右から左へと渡している暮らしにすぎないではないか。しかも自分はこの手一杯の生活に、満足を覚えたことはほとんどない。ところが不思議なことに喜助はたった200文(約6500円)の銭を貯蓄と見て喜んでいる。喜助には欲がない。「足ることを知っている」のだ

人は万が一の時に備える蓄えがないと、少しでも蓄えがあったらと思う。蓄えがあっても、またその蓄えがもっと多かったらと思う。このように先から先へと考えてみると、人はどこまでいっても踏みとどまることができない。それを今日目の前で踏みとどまって見せたのが喜助ではないか、と庄兵衛は気がつきました。庄兵衛には喜助が毫光(ごうこう)のさす仏のように思えました。

 

4 喜助の告白

喜助が人を殺すような輩にはとても思えない庄兵衛は、改めて喜助に問いかけました。「喜助さん(※今度は庄兵衛は無意識のうちに敬称を付けました。庄兵衛の喜助を見る目に変化があったようです。)、俺に人をあやめた理由を話して聞かせてくれるか?

これに対し喜助は、恐れ入った様子で話し始めます(※ここの喜助の話はかなり長いです)。
「私は小さい時に両親を流行病で亡くしまして、弟と二人だけになり、それから一緒に助け合って働いてきました。去年の秋、西陣織の織場に入って、布地を織る仕事をすることになりました。ですがそのうち弟が病気で働けなくなり、弟は喜助一人に稼がせて申し訳ないと申しておりました。そんなある日、いつものように仕事から家に帰ると、弟は布団の上に突っ伏しており、周りは血だらけになっていました。弟は両方の頬から顎にかけて血に染まっており、息をするたびに傷口からヒューヒューと音が漏れていて、ものも言えません。傍らによると、弟は体を起こしてなんとか喋りだします。「すまない。どうせ治りそうもない病気だから、早く死んで少しでも兄貴に楽をさせたいと思ったのだ。喉笛を切ったらすぐ死ぬだろうと思ったが、息が漏れるだけで死ねないのだ。そこで剃刀の刃を深く押し込むと、横に滑ってしまった。これを抜いてくれたら俺は死ぬだろうと思っている。どうか手を貸して抜いてくれ。」
医者を呼ぼうとする私に対して弟は恨めしそうに言います。「医者が何になる。苦しいから早く抜いてくれ。頼む。」と。苦しむ弟を見て、弟の言う通りにするほかないと悟った私は、弟の喉に刺さった剃刀の柄を握って、ずっと引きました。ところがその時、近所の婆さんが弟に薬を飲ませるために表口の戸を開けて入ってきました。そして二人を見て「あっ」と言ってそのまま駆け出して行きました。(※つまり婆さんは喜助が弟を殺したと思い、それを近所に報告しに行ったようです。)その婆さんの様子をぼんやりと見ていた私が、気が付いて弟を見てみますと、弟は既に息が切れておりました。それから年寄衆(村役人など)が出てきて役場へ連れていかれるまで、私は死んでいる弟の顔を見つめていました。」

 

5 安楽死は許されるのか?

(※再び喜助の話を聞いて庄兵衛が思ったこと)
喜助の話はよく物事の筋道が立っている。庄兵衛は、これが果たして弟殺しというのだろうか、人殺しというのだろうかと疑いました。
弟は剃刀を抜いてくれたら死ねるから、抜いてくれと言った。それを抜いて死なせたのだから、殺したのは事実である。しかしそのままにしておいても、弟はどうせ死ななくてはならなかったらしい。早く死にたいと言ったのは、苦しさに耐えられなかったからだ。喜助は弟を苦しみから救ってやろうと思って命を絶った。それが罪であろうか。
庄兵衛にはこの疑問がどうしても解けませんでした。そして庄兵衛はこの話をお奉行さまに報告し、判断を任せたいと思いました

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感想

喜助は弟に「剃刀の刃を抜いてくれたら俺は死ぬだろうと思っている。どうか手を貸して抜いてくれ。」と頼まれて、その通り剃刀を抜き弟は死にます。その結果喜助は犯罪者となり、遠島(エントウ)という重い刑を科されました。

喜助は「死にかかっていて死なれずに苦しんでいる人を、早く死なせてやりたい」という気持ちでとどめを刺したわけですが、喜助の行為の何がいけなくて犯罪となったのでしょうか?どうすべきだったのでしょうか?現在の法律に照らして少し考えてみたいと思います。

喜助の行為は、現在の日本では「積極的安楽死」に分類され犯罪になります。苦痛から逃れるために意図的に死を招く措置を取る行為は、たとえ相手が望んでいたとしても「自殺幇助」であり、刑法202条の「同意殺人」であるとみなされます。同意がなければ199条の「殺人罪」に該当します。

一方で患者の苦痛を長引かせないために、延命治療を中止して死期を早める「消極的安楽死(尊厳死)」という考え方もありますが、現在の日本ではこの「尊厳死」を直接認める法律は存在しません。従って、医師などが医療措置をやめることによって患者の死期を早める行為は、「同意殺人」に問われる可能性があるようです。日本では「安楽死」や「尊厳死」の問題は、未だにはっきりとした指針がありません。

それではもし喜助が手当や医者を呼ぶ行為をしないで弟が亡くなった場合、この「消極的安楽死(尊厳死)」に該当するのでしょうか?この場合、身体障害者や病人などの扶助が必要な人物を、保護する責任のある者が、置き去りにする(何もしない)ことによって死に至らしめることになるため、刑法219条の「保護責任者遺棄致死罪」に該当すると考えられます。したがって「何もしない」は「尊厳死」ではなく、明確な「犯罪」になると思われます。

つまり喜助は、たとえもう助からないとわかっていたとしても、たとえ弟に頼まれたとしても、手当てをするか医者を呼びに行かない限り、現在の日本の法律では犯罪(同意殺人罪か保護責任者遺棄致死罪)者となってしまう可能性が高いということになります。

江戸の寛政時代(1789-1801)においても、200年以上経った令和時代においても、罪のない人の命を奪うこと(何もしないことも含む)は、基本的に認められていません。

 

それではなぜ国は、「安楽死」や「尊厳死」の問題についてこれほどまでに慎重なのでしょうか。

実は過去にナチスドイツによって「安楽死」の名のもとに大勢の障害者が虐殺されたという歴史がありました。つまり悪用されるととんでもない事態が引き起こされることになる、というのが主な理由になるようです。

人の命を合法的に奪う権利を与える「安楽死」「尊厳死」は、それだけデリケートで恐ろしいテーマと言えるのかもしれません。

しかし世界には、オランダやベルギーなど「積極的安楽死」を認めている国も存在します。中でもスイスでは「自殺幇助」が合法化されています。

実は2019年10月に、不治の病(筋萎縮性側索硬化症)で苦しんだ日本人が、この「スイスの合法的に死ぬ制度」に申請した、ということがありました。ですが、このスイスの団体に診断書を提供した日本人医師が、「自殺幇助」の罪(刑法202条)で逮捕起訴される、という結果になりました。

つまり現在の日本においては、海外で「安楽死」を選択することすら法的には許されない、ということになります。

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安楽死」「尊厳死」の問題は、確かに結論を出すのが非常に難しいデリケートなテーマだと思います。ですが世の中には、耐えがたい苦痛に延々と苦しみ続けている人たちも確かにいます。そしてなにより死にかかっていて死なれずに苦しんでいる人を、早く死なせてやりたい」という喜助の気持ちは、いつの時代も共通ではないでしょうか。

本当に最後の選択肢として、そして厳格な条件を設けた上で、せめて「尊厳死」だけでも法的に認めてあげてはどうだろうか、と僕は思います。
(※仮に「尊厳死(消極的安楽死)」が合法化されていたとしても、喜助の行為「自殺幇助(積極的安楽死)」は犯罪になります。)

喜助が弟の喉に刺さったカミソリを抜く瞬間、「これは犯罪になるかもしれない」という考えが、おそらく喜助の頭にもよぎったことでしょう。そしてその可能性を承知の上で、弟を苦しみから解放させるためにとどめを刺し、その場を人に見られて犯罪者となりました。ですが、「あくまで弟を楽にするためにやったことだ」と胸を張れるからこそ、彼は清々しい態度を取れるのかもしれません。

この小説は「翁草(オキナグサ)」に記載された実話を元に、森鴎外が脚色を加えたものになります。このお話の続きはどこにも書かれていませんが、庄兵衛の報告を受けたお奉行様が、喜助に寛大な処置を行ってくれたことを期待したいです

そしてもし可能ならば、彼が遠島を赦され、そして職業訓練も受け、手に職をつけた上で社会復帰した。

そんな姿を僕は想像したいです。

 

森鴎外の他の作品についても書いてみましたので、お時間があったら読んでみてください。
 
それとも他の本を読んでみる?

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