【10分で山椒大夫】あらすじ・内容・解説・感想・登場人物!【森鴎外】

山椒大夫(さんしょうだゆう)」は、1915年に発表した森鴎外(1862−1922年)の歴史小説。旅の途中に人買いにつかまり奴隷とされた厨子王(ずしおう)が、やがて脱出して都で出世し、生き別れた母を探し出すという、平安時代後期を舞台としたお話で、「さんせう太夫」という古典を元に森鴎外が書き上げた作品になります。
この「山椒大夫」について、あらすじ・内容・解説・感想を書いてみました。

スポンサードリンク

 

まずは簡単な内容と解説!

(※ここでは森鴎外の歴史小説の特徴や山椒大夫の成立過程をご紹介します。お急ぎの方はあらすじまで飛ばしてもらって構いません。)

森鴎外(1862−1922年)は年齢を偽って入学し、18歳で東京大学医学部を卒業した近代日本史上類のない秀才です。その後陸軍軍医となり、ドイツ留学を経て、最終的には軍医総監、軍医のトップにまで昇進しました。そして医学博士にして文学博士。つまり彼は、小説家である以前に軍人であり、トップエリートです。

そんな彼が小説デビューをしたのは1890年(27歳)の「舞姫」。以後、日清戦争出征や小倉転勤(左遷)などによる中断を挟みながら、多くの文学作品を執筆することになります。

後に「近代日本文学の歴史小説の祖」と評される森鴎外ですが、初めて歴史小説を書いたのは意外と遅く、実は1912年(50歳)の「興津弥五右衛門の遺書」。かなり晩年で、乃木希典の殉死がきっかけだったと言われています。

鷗外の書いた随筆「歴史其儘(そのまま)と歴史離れ」によると、彼は歴史小説を二つに分けて考えており、一つが史実にできるだけ忠実に描く「歴史其儘(そのまま)」で、もう一つが必ずしも史実にとらわれずある程度作者の想像を交えて描く「歴史離れ」。

鴎外の小説で言うと、「阿部一族」「興津弥五右衛門の遺書」「大塩平八郎」などが史実に割と忠実な「歴史其儘」であり、「高瀬舟」「山椒大夫」「最後の一句」などが作者の独自解釈や修正を加えた「歴史離れ」、になるようです。

特に「歴史其儘(そのまま)と歴史離れ」では「歴史離れがしたくて山椒大夫を書いたのだ」とハッキリ言っています。

要するに「山椒大夫」には元となる歴史上の資料があって、そこに鷗外自身の創作もある程度加えている、ということになるのですが、その元になった物語が説教節(せっきょうぶし・中世から近代にかけて盛んに行われた語りもの芸能)の有名な演目「さんせう太夫」と、この「さんせう太夫」を改変した「安寿・厨子王伝説」。「歴史其儘(そのまま)と歴史離れ」によると、概ね次のような伝承を参考にしたと言っています。

永保元年(1081年)、岩城の判官(はんがん・律令制の四等官の第三位)平正氏(たいらのまさうじ)は讒言によって筑紫に流された。正氏の妻は、2人の子供、安寿(あんじゅ・姉)・厨子王(ずしおう・弟)が育つのを待って、父を訪ねる旅に出る。しかしその途中人買いに騙されて親子離れ離れに売られ、姉弟は丹後の長者「山椒大夫」の元で悲惨な奴隷生活を送り、額に焼印まで押される。安寿は弟の厨子王をを逃がすが拷問を受けて死に、厨子王は京都清水寺に匿われ、梅津院の養子になり、後に陸奥守兼丹後守になる。さらに厨子王は佐渡に渡って母を連れ戻し、丹後に入って山椒大夫父子をノコギリで挽き殺し復讐を果たす。

鴎外の随筆「歴史其儘(そのまま)と歴史離れ」によると、原話は概ねこのような伝承だったようですが、拷問死とかノコギリで挽き殺すといった描写があり、かなりエグイ内容だったようです。鷗外はこの伝承うち、辻褄が合わない箇所や好みに合わない部分に修正を加えたと言っています。まず拷問や処刑などの残酷な場面はほとんど切り捨て、焼印は夢の中の出来事へと変更。また父の正氏は原作によると平将門(まさかど・903−940年・桓武天皇の5世孫・自らを新皇と称し、東国で独立を標榜して討ち取られる。)の子孫だったが、反逆者であるため別の桓武平氏(高見王・桓武天皇の孫)の子孫に変更し梅津院では辻褄が合わないので藤原師実(もろざね・藤原道長の孫)に変更。登場人物の年齢から年号の修正なども行ったようです。

鷗外は、かなり入念に歴史を調べた上で、できるだけ矛盾がないように、そしてより物語を自然に楽しめるように修正を行ったようですが、「正直歴史離れがし足りなかった」とも告白しています。つまり「もうちょっと脚色を加えたかった」みたいです。

なお、原話の説教節「さんせう太夫」のルーツを少し調べてみたのですが、どうやらこれは架空の伝説であって、安寿や厨子王丸も実在の人物ではないようです。平安時代、権力者の領地から逃亡する者たち(散所の民という)がおり、この散所の民を金で買って利益を得たものを「散所の大夫」と言いました。もともと説教節(せっきょうぶし)というのは仏教的因果応報を説くものであって、「散所の大夫」のような人身売買で金儲けをすることを戒めたいという立場をとっていたようですが、下層民の現実よりも高貴な人たちの悲劇を描いた方が聴衆に強い印象を与えるため、桓武平氏(第50代桓武天皇の子孫・天皇の子孫である源氏と平氏は武士の中でも別格の存在です)の流れを汲む平将門の子孫としたのではないかと考えられています。

個人的には、「山椒大夫」が実話に基づいた話ではなかったことがちょっと残念に感じました。

スポンサードリンク

 

登場人物!

厨子王(ずしおう・弟)
陸奥掾(むつのじょう・陸奥は東北地方・掾は律令制の四等官の第三位)平正氏(たいらのまさうじ)の息子で物語の最初では12歳。高見王(たかみおう・桓武天皇の孫で平清盛の祖先※原話では高見王ではなく平将門)の子孫にあたる。一家で父を訪ねる旅の途中、山岡大夫に騙され、山椒大夫に売られて奴隷になる。姉に逃がしてもらい、関白・藤原師実の庇護を受け、後に丹後の国守となり、最後は佐渡で母を探し出し再会を果たす。

 

安寿(あんじゅ・姉)
陸奥掾正氏の娘で冒頭では14歳。勝ち気で家族思い。山岡大夫に騙され、山椒大夫に売られて奴隷になる。弟を逃したあと、原話では拷問によって殺されるが、この小説では入水自殺を図る。

 


陸奥掾正氏の妻で歳は30を超えたばかり。厨子王と安寿の二人の子供がいる。夫を訪ねる旅の途中、山岡大夫に騙され、有り金を全て奪われた上、佐渡で売られる。失明して目が見えなくなってしまうが、探しにきた厨子王の持つ地蔵様の力で再び見えるようになる。

 

姥竹(うばたけ)
安寿が生まれた時から守をする女中で歳は40歳ぐらい。他に身寄りがないため旅に同行するが、騙されたことに気づくと、佐渡の二郎の船から海に身投げする。

 

潮汲女(しおくみおんな)
潮汲み女とは、塩を作るために海水を汲む仕事をしている女性のこと。宿のない厨子王たちに橋の下で休むことを勧めるが、そこへ人身売買に手を染める山岡大夫を差し向ける。

 

山岡大夫
40歳ほどの逞しい船乗りだが、実は人買いの協力者。宿のない厨子王たちに宿と食事の提供し、四人を途中まで船で送ってあげるふりをして、宮崎の三郎と佐渡の二郎に引き渡し、母の金を全額奪い取る。

 

宮崎の三郎
越中宮崎(富山県下新川郡朝日町宮崎)を拠点とする人買いの仲介者の船頭。安寿と厨子王を山岡大夫から引き取るもなかなか買い手がつかず、最終的に丹後の山椒大夫に売る。

 

佐渡の二郎
佐渡を拠点とする人買いの仲介者の船頭。厨子王の母を佐渡に売る。

 

山椒大夫(さんしょうだゆう)
六十歳の人買いで、何から何まで職人を使って作らせる丹後(現在の京都府北部)の金持ち。3人の息子がいる。原話「さんせう太夫」では、後に丹後の国守になった厨子王に三郎と共にノコギリで挽き殺されることになっていたが、森鴎外の「山椒大夫」では厨子王の指導のもときちんとした商売を行い、より富を蓄えることになる。

 

太郎
山椒大夫の長男。19年前の16歳の時、父親が逃亡をした者に焼印をするのを見て家を出る。現在行方不明。

 

二郎
山椒大夫の次男。優しくて正義感がある。邸内でも強い奴が弱い奴を虐げたりしないよう取り締まっており、父母を恋しがる安寿と厨子王を励ます。安寿が厨子王と一緒に山へ芝刈りに行けるように取り計らう。

 

三郎
山椒大夫の三男で歳は30歳。残酷で意地悪。安寿に脱走の言いがかりをつけ、姉弟に焼印を押す(夢の中)。厨子王と一緒に山へ芝刈りに行きたがる安寿の髪を切る。

 

曇猛律師(どんみょうりつし)
中山(京都府舞鶴市中山)の国分寺の住職。五十歳を越したばかりで、背の高い頑丈な体を持つ。山椒大夫の元から逃げてきた厨子王を匿い、都まで送り届ける。厨子王が丹後の国守になると僧都(そうず)の地位に就く。(僧の位は上から僧正・僧都・律師の順。)

 

鐘楼守(しょうろうもり)
中山の国分寺の鐘楼守。厨子王を追いかけてきた三郎にウソを教え、厨子王を助ける。

 

藤原師実(ふじわらのもろざね)
藤原道長の孫で太政大臣と関白を務めた人物(1042−1101年)。娘の病気の平癒(へいゆ)を祈るために清水寺に参拝来るが、ここで寝ている童が持っている守本尊を拝め、という夢のお告げがあったことにより、厨子王と知り合い庇護することになる。原話では師実ではなく梅津院。

スポンサードリンク

 

あらすじ!

あらすじに入る前に、少し時系列の話をさせて下さい。この小説の中に年代を特定できる記述はありません。しかし鴎外の随筆「歴史其儘(そのまま)と歴史離れ」に記載されている元の伝説によると、厨子王の父・平正氏が讒言で筑紫安楽寺へ流されたのは永保元年(1081年)とされています。鴎外は小説の中で、当時生まれたばかりの厨子王が12歳になった寛治6年(1092年)の秋を物語冒頭に設定したようです。その後厨子王が売られるまでに何日かかかりますが、山椒大夫の奴隷になった時点でも1092年の秋。奴隷として年を越し、翌1093年の春に脱走して関白師実に保護され、その年の秋、13歳にして国守となった、ということになります。それから母に再会するまでどれだけの年月が経ったのかよく分かりませんが、再会する季節は秋。既に厨子王が国守としてある程度の政治を行っており、母が失明していることを考えると、数年以上経過していると思われます。

 

1 厨子王一家、父を訪ねに旅をする

ある秋の日(年代の記述はありませんが、1092年の秋を想定しているようです。堀河天皇の時代です。)、30を少し超えた婦人(母)と、その娘(14歳)息子(12歳)女中(40歳程)の4人の旅人が、越後の春日(新潟県上越市本町あたり)を歩いている。娘の名前は安寿(あんじゅ)で弟は厨子王(ずしおう)、女中は姥竹(うばたけ)。一行は、筑紫(九州)へ旅立ったまま帰ってこない父親(※11年前の1081年に、讒言により九州に左遷させられた、ということになっています。)を訪ねに岩代(いわしろ)の信夫郡(しのぶごおり・福島県福島市南西部)から歩いていた。

日が沈みかかっていたので、通りすがりの潮汲み女(※塩を作るために海水を汲む仕事をしている女性。)に旅の宿を尋ねてみた。すると潮汲み女は「この辺りでは、人買いが出るため国守の掟により旅人に宿を貸してはいけないことになっています。あそこの橋(荒川に架かる応化橋・おうげのはし)の下でお休みになるのが良いでしょう。夜になったら私が藁(わら)などを持っていきましょう。」と親切に案内してくれたので、母はお礼を言って一行は橋の下で休むことにした。

彼らが荒川(現在の関川)の応化橋から河原に降り、材木に腰掛けて食事を食べていると、突然40歳程の逞しい男が近づいてきて、親子の座っている材木の端に腰をかけて語りかける。「わしは山岡大夫という船乗りじゃ。この頃人買いが出るので、国守が旅人に宿を貸すことを禁止したが、わしは旅人をこっそり泊めて助けてやりたいと思っている。これまでも大勢の人を連れ帰った。大したもてなしはできないが、芋粥(いもがゆ)でも進ぜよう。どうぞ遠慮せず来てくだされ。」
(※記述はありませんが、潮汲み女が山岡大夫をここへ案内したと思われます。つまりグルです。)

掟に背いてまで旅人に宿と食事でもてなそうとする山岡大夫の心意気に感動した母は、彼に礼を言って好意に甘えることにした。山岡大夫の顔にはなぜか喜びの影が見えた。

 

2 厨子王一家、騙されて売られる

一行は大夫の家に行き芋粥をよばれる。母が身の上話して筑紫(九州)を目指している旨を伝えると、山岡大夫は難所が多く危険な陸路ではなく安全な船路を勧める。彼は西国までは行けないが、途中まで船に載せることができ、その先は知り合いの船を紹介することができると言う。そして山岡大夫の船に翌朝乗せてもらうことにした。

翌日の明け方、起床すると母は袋から金を出して宿代を払おうとする。しかし山岡大夫は言う。「宿代はいらね。しかし金の入れてある袋は預かっておこう。船に乗る時は大切な品は船の主に預けるものなのである。」すでに宿を借りており抗うことができない母は山岡の言葉に従ったが、姥竹の顔には不安の色があった。
そして全員山岡の船に乗って出航する。

山岡がしばらく岸に沿って南に漕いでいくと、人気のない岩陰に船が2艘止まっている。宮崎の三郎佐渡の二郎である。

山岡と宮崎と佐渡の三人が、なにやら手で銭のやり取りをした後、子供二人は宮崎の船へ、母と姥竹は佐渡の船乗り移らされた。姥竹が山岡に「あの、お金の入った袋は?」と聴くと、山岡は「わしはこれでお暇をする。ご機嫌ようお越しなされ。」と言って船を出して遠ざかって行った。
(※つまりお金を全額山岡に奪われた。)

母が佐渡に「同じ港に着くのでございましょうね?」と確認すると、佐渡と宮崎は声を立てて笑い、佐渡は北へと、宮崎は南へ漕ぎ出し、みるみる遠ざかっていた。

騙されたことに気づいた母親は、子供たちに必死に呼びかける。「もうこれが別れたよ。安寿は本尊の地蔵様を大切におし。厨子王はお父様の守り刀を大切におし。どうぞ二人が離れぬように。」(※このお地蔵様が後に何度も窮地を助けてくれることになります。)姥竹は「どうぞあの船の方へ漕いで下さいまし。」と抵抗するも、佐渡に「うるさい。」と蹴られ、自ら海に飛び込んだ(入水自殺)。これを見た母も袿(うちき・丈の長い衣服)を脱いで佐渡に渡し「お世話になったお礼に差し上げます。」と言って海に飛び込もうとするも、佐渡に髪を摑まれ縄で縛られた。そして佐渡の船は北(佐渡島の方)へと進んでいった。

姉の安寿(あんじゅ)と弟の厨子王(ずしおう)は抱き合って泣いた。宮崎は越中・能登・越前・若狭などを何日もかけて2人を売り歩いたが、幼いゆえに体も弱かったので、なかなか買い手がつかなかった。

そして巡り巡って、宮崎は丹後(京都府北部)の石浦(京都府宮津市石浦)にたどり着く。そこには何から何まで職人を使って作らせる山椒大夫という金持ちがいた。宮崎が安寿と厨子王を山椒大夫の所へ連れて行くと、七貫文で買いとられ二人は奴隷となった。

スポンサードリンク

 

3 山椒大夫の下での奴隷生活

安寿と厨子王は山椒大夫と彼の二人の息子の前に引き出された。山椒大夫は今年で六十歳。息子達は本当は3兄弟だが、今年35になる長男の太郎は19年前から行方不明。山椒大夫の左右には次男の二郎と三男の三郎が並び、三郎も既に30歳。

名前を名乗ろうとしない安寿と厨子王に対し、山椒大夫は勝手に名前をつける。姉は垣衣(しのぶぐさ)で弟は萱草(わすれぐさ)。そして姉は潮汲み、弟は芝刈りを毎日の日課として命じられた。二人は他の奴婢たちとは異なる新参小屋に入れられた。

そして過酷な奴隷生活が始まる。毎日、厨子王(萱草)は山へ芝刈りへ、安寿(垣衣)は浜辺へ汐汲み(塩を作るために海水を汲む仕事)へ行った。姉は浜で弟を思い、弟は山で姉を思った。そして日が暮れて小屋に帰れば、筑紫の父が恋しい、佐渡の母が恋しい、と泣きあった。

 

4 焼印と地蔵様の救済

奴隷になって10日ほど経つと、新参小屋から男用の奴(やっこ)組と女用の婢(はしため)組に移ることになっていたが、安寿と厨子王は、母の言いつけ通り死んでも別れないと訴えた。それを知った二郎は、二人を一緒に置くよう山椒大夫に取り計らってくれた。

さらに二人が父母を恋しがっていることを聞いた二郎は、「父母が恋しゅうても佐渡は遠い。筑紫はそれよりもさらに遠い。父母に会いたいなら大きくなる日を待つが良い。」と二人を励ました。二郎は、邸内でも強い奴が弱い奴を虐げたりしないよう取り締まっていた。

ある日、安寿が厨子王に対しこんなことを語りかけていた。「私に構わないでお前一人で逃げて。筑紫のお父様に合ってどうしたらいいか伺って来なさい。それから佐渡のお母様お迎えに行きなさい。」これを立ち聞きした三郎は、2人を山椒太夫の前に引き出し、逃亡を企てたとして、2人の額に焼印を押し付けた(※逃亡を企てた者には焼印の罰を与えることになっている)。

激痛に二人は悲鳴をあげ、額には十文字の後が残ったが、二人が袋からお地蔵様を取り出し、額を地面につけて丁寧に拝むと、二人はハッと目を覚ます

激痛もなく額に傷もない。すべては夢だった。しかし姉弟が夢の話をするとどうやら二人で同じ海を見ていたらしい。地蔵様の額を見てみると十文字の傷が鮮やかに刻まれていた。
(※原話の説教節「さんせう太夫」では地蔵様の身代わりの話はなく、額の傷は永久に残ります。夢落ちは森鴎外による創作です。)

 

5 安寿の犠牲と厨子王の逃亡

この恐ろしい夢を見たときから安寿の様子が酷く変わった。言葉は少なくなり、表情が引き締まった。

冬になって寒くなると、奴婢たちは外に出る仕事を辞めて家の中で働くようになる。安寿の仕事は潮汲みから糸紡ぎへと変わり、厨子王の仕事は芝刈りから藁打ちへと変わった。

そして年を越し(1093年)、草が萌える春になると、再び外の仕事(安寿は潮汲み、厨子王は芝刈り)が始まることになっていた。ところがその前日、安寿が二郎(優しい方)に「弟と同じ場所(つまり山へ芝刈り)で働かせてください。」と申し出る。その二郎の取り計らいでなんとか山椒太夫の承諾を得るが、三郎(いじわるな方)の嫌がらせで安寿は髪を鎌で切られ禿(かむろ・おかっぱ)になった。

翌朝2人は山へ芝刈りに出かける。姉は今年15になり、弟は13になっていた。安寿は一人で考え事をしている。安寿の胸には秘密があり、表情には喜びを湛えていた。

山の頂きにたどり着いた時、安寿が厨子王に語りかける。「あの中山(京都府舞鶴市中山)を越していけば、きっと都へ行かれます。お前はこの土地を逃げ延びて、どうか都へ登っておくれ。私のことは構わないで。お父様にもお目にかかり、お母様を島から連れ出した上で、私を助けに来ておくれ。
厨子王「姉さん、あなたはどうするのです。私がいなくなったら、あなたを酷い目に合わせましょう。」
安寿「私は我慢して見てます。お前の分まで私は芝を沢山苅ります。このお地蔵様は私だと思って、守り刀と一緒にして、大事に持っていておくれ。あの塔の見えるお寺に入って、追手から隠してもらいなさい。」

二人は山を下り、泉の湧く所へ来た。姉は木の椀を出して清水を汲むと「これがお前の門出を祝うお酒だよ。」と言って、一口飲んで弟に渡す。
弟は椀を飲み干すと「そんならねえさん、ごきげんよう。」と言って、一気に坂道を駆け下りていった。

後に山椒大夫一家の追手が、この坂の下の沼の端で小さい藁靴を一足拾った。それは安寿の靴だった。
(※つまり安寿は入水自殺を図りました。原話の「さんせう太夫」によると、安寿は山椒太夫の激しい拷問の末に亡くなります。厨子王に復讐という動機を持たせないために、鴎外がこのような変更を行ったのではないかと思われます。ですがこの弟思いの15歳の決断には、実話でないとわかっていても胸が苦しくなりました。)

スポンサードリンク

6 地蔵菩薩の奇跡で関白師実の庇護を受ける

中山の国分寺に、大勢の人を引き連れ薙刀を持った三郎(山椒大夫の三男)が押しかけて叫ぶ。「山椒大夫が使う奴の一人が、この山に逃げ込んできたのを、確かに認めたものがある。すぐにここへ出してもらおう。」

すると、背の高い頑丈な体を持つ住職の曇猛律師(どんみょうりつし・律師とは僧侶の位の一つで、上からから僧正・僧都・律師の順)が門を開けさせて応える。「当山では住職のわしに言わず人は留めない。わしが知らぬからそのものは当山にいない。当山は勅願の寺院(天皇の命令によって建てられた寺院)である。早う引き取られた方がよかろう。御身たちのためじゃ。」
(※本当は厨子王がいるけれどシラを切りました。)

三郎は睨んで歯噛みしたが、踏み込む勇気はなかった。するとこの寺の鐘楼守りが叫ぶ。「12,3のこわっぱが築泥の外を通って南へ急いだ。」これを聞いた三郎たちは南へ追いかけ、これを見た鐘楼守は大声で笑った。

3日後、曇猛律師は頭を剃って袈裟を着た厨子王を都の権現堂(ごんげんどう・清水寺の近く)まで送った。そして「守本尊を大切にしていけ。父母の消息はきっと知れる。」と言って分かれた。

厨子王(ずしおう)が東山の清水寺に泊まり翌朝目が覚めると貴族の服を着た老人が枕元に立っている。「私は関白・藤原師実(もろざね・1042−1101年・藤原道長の孫で太政大臣と関白を務めた人物。※原話では梅津院だったが変更している。)じゃ。私は娘の病気の平癒(へいゆ)を祈るために昨夜ここに参拝した。すると左の格子に寝ている童が良い守本尊を持っているから、それを借りて拝め、という夢お告げがあった。お前は誰の子じゃ。守本尊を貸してくれないか。」
厨子王「私は陸奥掾((むつのじょう・陸奥は東北地方・掾は律令制の四等官の第三位))政氏(まさうじ)の子でございます。父は12年前に筑紫(九州)の安楽寺へ行ったきり帰らぬそうでございます。私はその時から母と三つ上の姉と岩代(いわしろ)の信夫郡(しのぶごおり・福島県福島市南西部)に住むことになりました。そのうち私が大きくなったため3人で父を訪ねに旅立ちましたが、人買いに捕まり売られてしまいました。」
厨子王がその後の経緯を話し、守本尊を出して見せると、師実はその仏像を手に取って言う。「これは高見王(たかみおう・桓武天皇の孫で平清盛の祖先にもあたる人物。小説において鴎外が平正氏のご先祖に設定した。※原話では同じ桓武平氏である平将門の子孫となっています。)が持仏にされておられた尊い放光王地蔵菩薩(ほうこうおうじぞうぼさつ)の金像じゃ。これを持ち伝えているからには、お前の家柄に間違いはない。筑紫へ左遷させられた平正氏(たいらのまさうじ)の嫡子に相違あるまい。還俗を望むなら、追って受領の御沙汰もあろう。まずは当分私の家の客にする。一緒に館へ来い。」
(※こうして厨子王は関白師実に引き取られることになりました。)

 

7 厨子王、国守となって母と再会する

厨子王の守本尊に拝むと、関白師実の娘はたちまち回復した。師実は厨子王を元服させ、父平正氏(たいらのまさうじ)の配流地へ赦免状を送った。しかし正氏は既に亡くなっており、元服して正道と名乗っていた厨子王は嘆いた。

その年(1093年)の秋の除目(官職を任命する儀式)で正道は丹後の国守に任命された(※厨子王は13歳で国守になったことになりますが、実際には任国へは行かず代理の者に治めさせた、となっています。)。正道の国守としての最初の政は、丹後での人身売買の禁止。これにより山椒太夫は奴婢を全て解放し給料を払うことになった。山椒大夫は一時大きな損失を出したが、しばらくすると技術力も向上し、一族は富み栄た
(※伝承によると、厨子王は二郎だけを赦し、山椒大夫と三郎をノコギリで挽き殺し、越後の山岡大夫も討ち取って、復讐を果たすことになっています。鴎外は優しい国守として厨子王を描き直してくれたようですね。)

正道(厨子王)の恩人・曇猛律師(どんみょうりつし)は、僧都(僧侶の位の一つで、上からから僧正・僧都・律師の順)に任命された。安寿の亡き跡はねんごろに弔われ、入水した沼には尼寺が建てられた。

その後(どれくらいの年月が経ったからわかりませんが、季節は秋)、正道(厨子王)は休暇をとって佐渡へ渡る。役人の手を借り国中を調べてもらったが、母の行方は知れなかった。正道が自分の足で市中を歩いていくと、大きな百姓家の傍で襤褸(ぼろ)を着た盲目の女が、座って何やら歌のようにつぶやいている。
安寿恋しや、ほうやれほ。
厨子王恋しや、ほうやれほ。
鳥も生(しょう)あるものなれば、
とうとう逃げよ、逐(お)わずとも。

これを聞いた正道は、目に涙を溜めながら垣の内へ駆け込み、女の前に深く礼をした。そして右手に守本尊を捧げ持って、額に押し当てた。すると両方の目に潤いが戻り、女の目は開いた

「厨子王」という叫ぶ声が女の口から出て、二人は抱き合った。

スポンサードリンク

 

感想!

この物語の大元は、中世から盛んに行われた語り物芸能・説教節「さんせう太夫」になります。そして江戸時代には「浄瑠璃」や「歌舞伎」、「各地の民話」などにも発展し、1915年に森鴎外が小説化する以前に、既に日本では有名な伝承になっていました。

原話の「さんせう大夫」では、姉の安寿は弟の厨子王を逃がした後、拷問を受けて死に、やがて丹後守になった厨子王は、丹後で山椒大夫父子をノコギリで挽き殺して復讐を果たすことになっています。

お話としては確かにこれはこれで見応えがあると思いますが、現代人の感覚としてはノコギリで挽き殺す厨子王にはちょっと共感できない。というか見たくないです。このような話になっていたのは、江戸時代までは仇討ちが認められていたことも大きかったと思います。

鴎外はこのエピソードを、新しい時代の感覚に上手く描きなおしてくれました。安寿が入水自殺であるため仇討ちの必要もない。逆に厨子王の改革によって、山椒大夫(60歳)は正しい道に軌道修正し、ますます財を蓄えます。

13歳にしては随分と懐の深い政治をするものですね。この鴎外の修正によって、厨子王は「より現代的な魅力を持つ国守」へと生まれ変わったと思います。僕もお互いを想い合う安寿と厨子王の気持ちを想像するのが楽しくなりました。

 

一方で、その仏教色の強い世界観に少し驚かされました。物語の中では、守り本尊の地蔵様を大切にしろと繰り返し説かれ、厨子王がそのお地蔵様を大切にしていると数々の奇跡が訪れます。額に受けた焼印が夢の中の出来事となり、清水寺では関白・藤原師実に引き合わせてくれた上に、厨子王が高見王の子孫であることの身分証明を果たし、さらに関白の娘の病まで治します。特に最後に母親の目に光が戻ってくる場面は、キリスト教のパウロの回心を思い出しました。

調べてみると、「説教節」というのはもともと仏教の説教から始まったとも言われており、仏教への信仰と仏(地蔵菩薩)の救済を、庶民に説くことが目的だったようです。だからご先祖から授かった地蔵菩薩を大事にした結果、数々の奇跡に救われたということになるのですね。

 

ただ、この物語を色々と調べてみると、知りたくなかった情報もありました。

それが「この物語は架空の伝説であって事実に基づかないこと。」

確かに偶然関白と出会ったり失った光が戻ったりと、現実離れしたエピソードはありましたが、このお互いを想いあい、15歳にして自分の命と引き換えに弟を逃した安寿と、出世して自力で母を助け出した厨子王だけは、実在の人物であって欲しかった……というか知らずに実在の人物と思い続けていたかったです。

森鴎外の他の作品についても書いてみましたので、お時間があったら読んでみてください。
 
それとも他の本を読んでみる?
スポンサードリンク