1872年から1879年にかけての「琉球処分」によって、石垣島を含む先島列島は正式に日本の領土になりました。
  
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石垣島の歴史

 
石垣島に人が住み始めたのは非常に古く、約2万年前の人骨が見つかっています。
 
 
 
約3,500年前の遺跡からは、土器の使用も確認されました。
 
 
 
日本政府(大和朝廷)との交流も古く、続日本紀(しょくにほんぎ)によると、714年に石垣島を含む八重山(やえやま)との交流をうかがわせる記録が残っています。
 
 
 
 15世紀後半には、波照間島(はてるまじま)のオヤケアカハチが石垣島に移り住み、八重山諸島で勢力を広げていました。
 
 
 
しかし1500年、オヤケアカハチは琉球王国への朝貢を断り、琉球の尚真王(しょうしんおう)に討伐されます。
 
 
 
以後八重山諸島は、琉球(りゅうきゅう)王国の支配下に入ることになりました。
 
 
 
1609年琉球は、徳川家康・秀忠より琉球征伐の御朱印を受けた、薩摩藩島津氏により侵攻を受け降伏。
 
 
 
これ以後琉球王国は、薩摩藩に服属することになります。
 
 
 

琉球処分

 
琉球処分」というのは、明治政府が武力を背景に琉球を強制的に日本に統合した、一連の過程を言います。
 
 
 
1872年、明治政府は琉球に対して、強行的な廃藩置県(はいはんちけん)を実施しました。
 
 
 
琉球王国を廃止して琉球藩を設置し、国王尚泰(しょうたい)を琉球藩王とします。
 
 
 
これによって薩摩藩の管轄下にあった琉球を、明治政府の直轄に移しました。
 
 
 
さらに1875年、処分官・松田道之(みちゆき)は、琉球藩に対し次の要求を突きつけます。
 
清国との冊封の禁止
②明治年号の使用
③謝恩使(しゃおんし)としての尚泰の上京
  ※謝恩使とは宗主国に対する謝恩のために派遣する使節。
 
 
 
しかし琉球はこれを拒否。
 
 
 
命令に拒否する琉球藩に対し、1879年3月、松田道之は警察と軍隊の武力をもとに、廃藩置県を行うことを通達。
 
 
 
これを受けて首里城が明け渡され、約500年続いた琉球王国は滅び、沖縄県となりました。
 
 
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日本と清国の交渉

 
明治政府の廃藩置県に対して清国は、「琉球は古来中華帝国に服属していた」と反発し、琉球の領有権を主張します。
 
 
 
これに対し明治政府は、沖縄本島を日本領とする代わりに、先島諸島の宮古、八重山を清国に割譲する案を提示します。
 
 
 
は一度は仮調印をしますが、「あくまで琉球領とした上で、清と冊封関係を続ける、琉球王国再興」の方針を取ったため、琉球の帰属問題は一旦棚上げ状態となりました。
 
 
 
そして1894年の日清戦争の結果、清国は旧琉球王国全域が日本領であることを、事実上認めざるをえなくなります。
 
 
 
このような歴史をたどり、石垣島を含む八重山、宮古は、現在完全に日本の領土となっています。
 
 
 

領土問題は簡単に譲ってはダメ!

 
今考えると、ずいぶん不可思議な外交交渉が行われました。
 
 
 
現在必死に守り抜こうとしている、宮古、八重山を率先して中国に譲り渡そうとし、中国はそれをいらないと拒否。
 
 
 
しかもこの「先島分割案」は条約調印寸前まで進められていました。
 
 
 
仮に調印されていれば、宮古、八重山は文句なく中国領。
 
 
 
中国はもっと早くに海軍力を増強し、日本への圧力を高めていたかもしれない。
 
 
 
この一連の交渉から得られる教訓があるとすれば、「領土問題は簡単に譲ってはいけない」といったことでしょうか。
 
 
 
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